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韃靼人とタタールのくびき
「タタールのくびき」
なんとなく、ロシアが不幸だった時代?とした認識していなかったのだが・・・
ボロディンの「イーゴリ公」の「ポロヴェツ人(韃靼人)の踊り」に取り組むに当たり周辺を調べていたら再び「タタールのくびき」に出会うこととなった。
まずはイーゴリ公の舞台がどこか?となるのだが、
現在のロシアの基礎となったキエフルーシのとある町。
その領主のイーゴリ公とその息子。
時は1185年。日本では源平合戦の終盤。治承・寿永の乱が終わって(?)、源頼朝が奥州藤原氏に攻め込んでいる頃。
【適当に解釈した身もフタもないあらすじ】
イーゴリ公の町は遊牧民ポロヴェツ人(韃靼人=タタール人)からの攻撃を受けて戦争中。
嫁の兄はなにやら企んでいるし、戦いに敗れて捕囚された先で息子は敵将の娘と恋に落ちるし、敵将はかつての戦友で、同盟を持ちかけてくるし、祖国が更に戦いに敗れているし、イーゴリ公は嘆くしかできない!そして敵将であるコンチャークはイーゴリ公を仲間にしたいので懐柔作戦展開!
そこで出てくるのが別嬪女奴隷による歌と踊り。これが「韃靼人の踊り」なわけである。
内陸深くに囚われた女たちだからこそ「海」が憧れであり希望となるわけだ。
そしてコンチャークを讃えまくる。
物語の終わりは息子は無事結婚(その後は不明)。イーゴリ公は帰還し再び戦いに身を投じる英雄譚、という感じだろうか。
物語のその後が気になる。
史実によれば、遊牧民族はユーラシアで勢力を拡大し、12世紀あたりにはチンギスハンによりモンゴル帝国が成立。キエフルーシも13世紀にはその支配下に下る。
それから始まったのが「タタールのくびき」と呼ばれるロシアの冬の時代。
歴史は誰の視点から見るか?で大きく変わる。
支配を受けたロシアからすれば、暗黒の時代。
後世から見たら、当初の侵攻時の残虐さはあるものの、納税強制の支配が始まればあとは割と自治に任せていたとも言われるており、一説にはゆるめの統治とも言われているらしい。
それは当時を過ごした当人たちにしかわからないことなのだろうけれど。
ちなみに、冒頭で奥州藤原氏を攻めてた源頼朝(のちの鎌倉幕府を開いた人)の弟、源義経は最後は非業の死を遂げているわけだが、北海道からモンゴルに渡りチンギスハンになったという伝説もある。完全に史実では否定されているのだが、江戸時代にも人気の説だったそうだ。
その後、14世紀前期倭寇で日本とモンゴル勢はぶつかることになる。
高校時代は世界史が苦手だったが、ようやく日本史と世界史をリンクしながら取り組めるようになってきたようだ。
まさか音楽がきっかけになるとは・・・。
京都にて。
タイトルは蝶々夫人である。
演出が素晴らしく、蝶々夫人を務めたソプラノの美しいことはもちろん、甲部の芸妓が舞い、日本の幽玄美が現されていた。南座でこその演出に、うっとりと魅入るばかりであった。
イタリアオペラであるものの、これは日本人が演じてこその妙ではないか。
オペラが総合芸術であるのなら、日本人以外のゲイシャメイクといわざるをえない白塗りは耐え難いものであるし・・・。
プッチーニが描いた悲劇はあの幽玄のなかで紡がれてこそ芯の姿を現すのではないだろうか。
日本史の点から見れば、猿田彦や天照の発音や仏教と神道の混濁もみられるものの。
話は逸脱するが、天照大神と天照彦、猿田彦、と神話の隠されたエピソードを邪推してしまったのはここだけの秘密である。仏教と神道の混濁は仏教伝来時から意図的に混合してきたものだから仕方ないとも思えるが。
逸脱ついでに京都といえば、秦氏である。
次回京都へ行くときは是非秦氏をめぐる旅、としてみたいものだ。そうすると飛鳥へも行かねばなるまい。
秦氏と蘇我氏、弓月と月読、仏教・神道・景教(ネストリウス派キリスト教)、となると、はるか西方の、ローマ帝国の分裂、西ローマ帝国の滅亡、と、大陸へとイメージは続く。
先日は中国で夏時代より更に遡る遺跡が見つかったのだという。
どこかマヤ文明を髣髴させるという噂の遺跡。
人は動く、文化は伝播する。その足跡が歴史となる。
音楽から始まった歴史への興味がこのようなことになるとは、楽しみなような、末恐ろしいような。
知識欲・欲深く。
仕事で見た画像が、いったいどの時代の文様をモチーフにしているのか気になって、調べだしたらきりがなくなってしまった。
おそらく、メソポタミア、ミケーネ、ササン朝ペルシア、オリエントとかそのあたりの言葉が飛び交うエリアのはず…
世界史は興味深いものの、世界中の時系列を関連付けていくのが苦手だったので、いまいち良く覚えていない…。
【ざっくりすぎる整理】
今気になっているのは「西洋~東洋を混ぜた感じの文明」で、「オリエント」と呼ぶエリア。多分古代の地中海から波及している。
おそらくヘレニズム文化。
ヘレニズム文化はアレキサンダー大王が、ギリシャ文明を各地に伝えて混ざった文化。
ギリシャ文明はエジプトとメソポタミア文明を混ぜたような感じ。
▼エジプトの文様:蓮華(ロータス)好き。上から見た図(ロゼッタ)、横から見た図とか、それらを繋げた唐草紋が好きだったようだ。→そしていつか仏教の文様と繋がった。
▼メソポタミア:チグリス川&ユーフラテス川の間!
ナツメヤシの模様とか好き。
キーワードは「シュメール、バビロニア、アッシリア」
▼ギリシア:植物と螺旋好き。渦巻きとかいろいろ。で、唐草になる。
↓
そしていろいろあってローマ。ローマはほぼギリシャ、ヘレニズムを継承。
▼ササン朝ペルシア:ギリシャ+インド風→シルクロードで中国を経て飛鳥・奈良時代の日本に届いたのはこの辺。
【アラベスク文様】植物文様のうち唐草系のこと。
モスクとかの装飾のイメージ。
※仏像はギリシャの神々の像に刺激を受けて作り始めたらしい。その為、初期のはちょっとギリシャ風(彫が深いとか)。ガンダーラ美術のあたり。
【ビザンチン】東ローマ!!トルコあたりのオリエンタルなイメージ。モザイク画。
多分、それぞれを掘り下げれば探している文様が見つかりそうだ・・・。
仕事で使うのは名目で、9割趣味。
ドイツ語とイタリア語とロシア語と。
今日はカルミナブラーナとナブッコのレッスンであった。
思い込みで読みを誤っていたところが発覚したり、2回目の取り組みだからこそ注意を払わねば、と思った。
ラテン語は「イタリア語読み」「ドイツ語読み」と指導者によって変わる。
所属する合唱団の総監督は常に「イタリア語読み」なので、イタリア語を勉強することにしたのはそのためだ。
ラテン語は印欧祖語から派生したイタリック語派に属し、
そこから中世フランス語を経てロマンス諸語(フランス語、イタリア語、スペイン語等)に分派したらしい。
ローマ帝国(ラテン語を公用語とした)があまりに広かったから、地方地方の訛りみたいなのが極まってそれぞれの言葉になったのだろう、と勝手に想像している。
とはいえ、日本語で言うところの「古典・漢文⇔現代日本語」の関係が「ラテン語⇔イタリア語等」というイメージでよいのだろう。
そういうわけで、現在イタリア語を勉強中であるが、活用は繰り返し練習しないとすぐにわからなくなる。
まだ近過去・半過去・大過去まで進んでみたものの、活用が不安になり戻っている。
もう一度復習してから条件法・接続法・命令法に進もうと思う。
ちなみにナブッコの解読はこんな状況である。
ところどころわからないままに「?」でやり過ごしているところが・・・おそらくまだ辿り着いていない構文なのだろう・・・なかなか進まない。
カルミナブラーナには中世ドイツ語も出てくる。
この「中世」ドイツ語というのが曲者で、現代ドイツ語とは異なるそうだ。
(現時点で違いが理解できていない)
また、同じ綴りであっても「文語」と「口語」で発音が異なるとのこと。
監督は常に「文語」発音を指示する方だということなので、ドイツ語は「文語」を意識して学ばねばならないようだ。
そしてロシア語である。
・・・最近我が家には語学参考書と辞書が増え続けている。蔵書の脈絡のなさにも歯止めがかからない。(先日は反動で推理小説を5冊ほど纏め買いしてしまった)
さて、ロシア語はキリル文字であるからインデックスも違和感満載である。
しかしながら「R」を鏡文字にしたものの発音が「er」的なものであるのはなんだか「表音文字」であるかのように体感できたのが不思議である。
「P」は「R」的で
「H」は「N」的で
「C」は「S」的であるのは慣れた。
ロシア語を学んでいて思うのは昨今のウクライナ問題である。
というのも、昨年末ウクライナのキエフ交響楽団との第九演奏に参加したためである。
あの時一緒に舞台に上がった、キエフ交響の彼ら/彼女らは今どうしているのだろう、と。
音楽を奏でられる状況にあるのだろうか?
もどかしいことに国内で報道される情報は少なく、心の隅で思いつづけることしかできない。
いつかまた出会えることを願っている。
ヴェルディのレクイエム
いわゆる「ヴェルレク」
2年ほど前に初めて歌った。
今に到るさまざまな音楽繋がりのきっかけとなった運命の曲であった。
キリスト教徒ではないため「ミサ曲」とは何か?も同時に勉強しなければならなかった。
当時の合唱指導の先生はとても丁寧に音楽を作る方で、その方に指導を受けれたのは幸運だったと思う。
先日、人生二度目のヴェルレクに取り組むかもしれない、ということになったが、日程の都合でおそらく舞台には出られないと思う。
その為、レッスンは聴講に留めさせてもらうことになるだろう。
しかし、いつか再びヴェルレクは歌いたい。
あんなにも練習が大変だったにもかかわらず(だからこそ?)深いところで響くようになった。
キリスト教徒でなくとも「音楽」で何かしらの根本は繋がれるのではないだろうか。
学生時代、キリスト教史も受講していたが既に記憶があやふやである。
しかし、美術、建築、音楽、と大抵かかわりがあるので、ここらで学びなおしておくべきだろう。
一応授業で使った「創世記」などは本棚に残っていることだし。