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2025年05月08日
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死を前にした安らぎを。
2015年12月27日
何故か日本の年末はベートーヴェンの第九まつり。
例に漏れず私も第九まつりである。
2年ほど前から縁あって声掛けしてくださるプロジェクト合唱団で年末を過ごすのが常である。
夏の終わりにオーディションを行いプロジェクトはスタートする。
今年はクリスマスコンサートも含めて9回の公演。
ご一緒するのはウクライナの楽団とロシアの楽団である。
この2つを往き来するのは不思議な感覚。文化的、歴史的、政治的、どのアプローチでも複雑な関係をとある日本人が往き来する。
ウクライナのマエストロはとてもリリカルで、抑制された中のなにかを確信したような表現をする。そして合唱団にそれを求める。
そんな中で、ウクライナの楽団とのステージで第九の3楽章をきいていたら、死を前にした安らぎのようなものを感じた。
その人生は安らかではなかったかもしれない。迎えた死も安らかではなかったかもしれない。
しかし死を目前に、それを受け入れた彼はあまりに安らかで、いとおしく甘い記憶に迎えられている。
自己の中に仕舞われた記憶かもしれない。
あるいはあらゆる記憶が繋がっているという集合的無意識(?うろ覚えだ)からの、またはそれらの管理者としての神(?)からの甘やかな贈り物かもしれない。
彼は死を受け入れ、死に優しく迎えられている。
3楽章にそのような印象を受けた。
そして4楽章に入り、彼は長い旅にでる。時に孤独に、そして多くの仲間とともに。
あるマエストロの時に、私にとってマエストロは歌われる天使ケルビムであった。それはときに楽園からきた乙女にも見えた。しかしその羽根のもとに包まれたいとも思った。
今回、ウクライナのマエストロは、道を照らす老賢者のようでもあった。
そして今、若々しいロシアのマエストロは、力強く気高く猛々しい偉大な翼を持つケルビムのようにも見え、あるいはいとおしさをあふれさせてしまったルシフェルのようでもあった。
マエストロであれマエストラであれ、
その指揮棒に導かれる間、私はまるで彼らに恋をする。
そこに私という個はなく、ただ彼らが視たなにか、扉の向こうを描くための絵筆となる。
彼の一部となり、集合的無意識にのまれ、有機化合物ではなく、エーテルに溶け出したなにかになりあまねく空間を充たす何かとひとつになる。
クリスチャンではなく、ワイン3杯のんでほろ酔いの日本人の感想である。
ベートーヴェンとシラーになんと言われるかは今は気にしない。
さて、残る公演、お立ちあい頂く皆様にすてきな時間とマエストロのイメージ具現化のツールとなれることを願って。
このコンサート中、私はマエストロに恋をする。
例に漏れず私も第九まつりである。
2年ほど前から縁あって声掛けしてくださるプロジェクト合唱団で年末を過ごすのが常である。
夏の終わりにオーディションを行いプロジェクトはスタートする。
今年はクリスマスコンサートも含めて9回の公演。
ご一緒するのはウクライナの楽団とロシアの楽団である。
この2つを往き来するのは不思議な感覚。文化的、歴史的、政治的、どのアプローチでも複雑な関係をとある日本人が往き来する。
ウクライナのマエストロはとてもリリカルで、抑制された中のなにかを確信したような表現をする。そして合唱団にそれを求める。
そんな中で、ウクライナの楽団とのステージで第九の3楽章をきいていたら、死を前にした安らぎのようなものを感じた。
その人生は安らかではなかったかもしれない。迎えた死も安らかではなかったかもしれない。
しかし死を目前に、それを受け入れた彼はあまりに安らかで、いとおしく甘い記憶に迎えられている。
自己の中に仕舞われた記憶かもしれない。
あるいはあらゆる記憶が繋がっているという集合的無意識(?うろ覚えだ)からの、またはそれらの管理者としての神(?)からの甘やかな贈り物かもしれない。
彼は死を受け入れ、死に優しく迎えられている。
3楽章にそのような印象を受けた。
そして4楽章に入り、彼は長い旅にでる。時に孤独に、そして多くの仲間とともに。
あるマエストロの時に、私にとってマエストロは歌われる天使ケルビムであった。それはときに楽園からきた乙女にも見えた。しかしその羽根のもとに包まれたいとも思った。
今回、ウクライナのマエストロは、道を照らす老賢者のようでもあった。
そして今、若々しいロシアのマエストロは、力強く気高く猛々しい偉大な翼を持つケルビムのようにも見え、あるいはいとおしさをあふれさせてしまったルシフェルのようでもあった。
マエストロであれマエストラであれ、
その指揮棒に導かれる間、私はまるで彼らに恋をする。
そこに私という個はなく、ただ彼らが視たなにか、扉の向こうを描くための絵筆となる。
彼の一部となり、集合的無意識にのまれ、有機化合物ではなく、エーテルに溶け出したなにかになりあまねく空間を充たす何かとひとつになる。
クリスチャンではなく、ワイン3杯のんでほろ酔いの日本人の感想である。
ベートーヴェンとシラーになんと言われるかは今は気にしない。
さて、残る公演、お立ちあい頂く皆様にすてきな時間とマエストロのイメージ具現化のツールとなれることを願って。
このコンサート中、私はマエストロに恋をする。
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